キングメーカー

The King Maker: The Man Who Saved George VI

 

ジョージ6世わしが育てた-『The King Maker』の書評を見てまず頭に浮かんだのがこの言葉(笑)。

実際に読んでみたら、そう間違いとは言えないほど、Louis Greigという人物は青年時代の彼に大きな影響を与えています。

バーティが海軍をやめるくらいから結婚して独立するまでの7年間を誰よりも身近にいたGreigは、内気で自分に自信がなく兄へのコンプレックスに悩む若き王子のメンターであるだけでなく、友達そして父親のような存在でした。

 

 

岩波書店のライオネル・ローグの本の94ページにもルイス・グリーグ中佐という名前が出てきますが、ここではルイス・グレイグと表記することとします。
グレイグは、バーティと15歳違いの1880年生まれのフレンドリーで陽気なスコットランド人で、グラスゴー大学で医学を学び1906年に海軍にはいります。

オズボーンの海軍学校で勤めていたときにアルバート王子が同校に入学し、学校で百日咳が流行し隔離されたときには彼の治療にあたっています。

その後バーティが、当時は死亡率が高い病気であったインフルエンザに罹ったときにもグレイグは適切な治療をし、メアリー王妃の信頼を得ることとなります。
こういった経緯によりバーティが軍艦カンバーランドに乗船するときも付き従い、1913年の遠洋航海実習にも船医として同乗しています。

 


第一次世界大戦が始まり、軍医としての任務中に捕虜となりますが捕虜交換で帰国します。
その頃、バーティは海軍士官としてHMSコリンウッドに乗船していましたが、腹痛によりしばしば下船する羽目に陥っていました。

軍艦と病院船を行ったり来たりの息子のことを心配した父ジョージ5世は、バーティがユトランド沖海戦のあとHMSマレーヤに異動したときにはグレイグに見守りを頼み、同船に配属されるよう手配します。

厳格な父親というイメージが強いジョージ5世ですが、息子の健康を心配する様子は父親らしい愛情にあふれています。

 


バーティが、3年間も患った腹痛の原因である十二指腸潰瘍の手術に踏み切る決断をしたのも、グレイグの助言と励ましがあったからです。
腹痛から解放されたバーティですが船はあきらめ、グレイグのアイディアを採ってパイロットライセンスを取るために海軍航空隊に入る許可を父に求めます。

船大好きの父からすると歴史の浅い飛行機には偏見がありましたが、息子の新たな人生の目標のために同意し、グレイグには同じく航空隊へ入り手助けするよう頼みます。

グレイグはクランウェルの基地から近い貸家に家族で住み、アルバート王子の面倒を見る事になります。

このRAF時代の間に彼はバーティのテニスのコーチをし、ダブルスを組んでRAFの試合に出て優勝もしています。

また、車を運転したりなど宮殿にいては出来ないような様々な体験をさせます。

 


戦争が終わり翌年の1919年にパイロットライセンスを取ったあと、父の方針によりバーティは10月から弟ヘンリーと共にケンブリッジ大学に1年間通うことになります。

しかし厳格な父は年頃の息子たちがよからぬ道に引き込まれることを心配し、学生寮に住むことは許さず、妻子と共に大学近くに引っ越したグレイグ一家の元から王子たちは大学に通うことになります。

飾らない人柄のグレイグの妻フィリスや夫妻の幼い子供たちに囲まれて、バーティは普通の家庭生活を送ることになります。

それは王室という特殊で堅苦しい環境に育った王子たちにとり、初めて経験する温かで安らぎに満ちた家庭でした。

一方、大学で彼らは三つ子のように並んで受講し、バーティが学生たちと交流することも友達を作ることもありませんでした。

もっとも学生寮に住んだとしても、内気な性格から気軽に学生と交流することは難しかったでしょうが。

 

 

1年間だけの学生生活のあと、ヨーク公となったアルバート王子は王室の一員として公務をすることになり、グレイグは側近としていつも付き添うことになります。

グレイグは宮廷のサークル外から来た人間でしたが宮廷内の出世や保身には興味はなく、王室の人間に対しも媚びへつらったり特別扱いをすることはありませんでした。

バーティの唯一の友人として何処にでも付き添い、父親代わりとして彼を庇護し、弟の吃音をからかう兄エドワードを嗜めることもありました。

しきたりや前例に囚われることなく様々なチャレンジをすることをヨーク公に勧め励まし、冷静さを失いがちな彼にスポーツを通して忍耐することを教えます。

内に秘めたポテンシャルはあるのに内気でシャイな性格や吃音というハンデから自分に自信が持てず、後ろ向きになっている一人の青年を放っておけなかったのかもしれません。

また、陽気なグレイグは交友関係が広く、バーティが王室関係や貴族以外の人と会う機会を多く作ります。

女性とのおつきあいもその中にはありました。

 


1923年に、めでたく結婚したバーティですが、そこから二人の関係は微妙なものとなっていきます。

今までグレイグが担っていた役割を妻が担い、夫を支えるようになったことから自然な成り行きだったと思います。

きっかけは他国での結婚式への同行者の人選をめぐる意見の違いでしたが、グレイグは王室を辞めることを申し出ます。

国王夫妻はグレイグのような信頼できる人を失うのは馬鹿げたことだと息子をたしなめますが、バーティは自分の意見を曲げませんでした。

当然ながらエリザベスに責任があるというゴシップが立ち、心を痛めた彼女は手紙で今までのグレイグの働きに感謝していることを伝えつつ、夫が今回のことで非常に悩んでいたこともグレイグに訴えました。
ジョージ5世とメアリー王妃が引き止めたにもかかわらず、王室での役割を終えたと考えたグレイグはシティで働き始めることにします。

ただ、王室とのつながりも完全に終わったわけではなく、ジョージ5世は臨時のポストGentleman Usherをグレイグに与え、何らかの形で関係が続くようにしました。

 


ヨーク公とグレイグの主従関係は解消しましたが、手紙や記念日の贈り物をやり取りしたり訪問したりといった個人的な関係は続いていき、長女のエリザベスが生まれたときにはバーティは喜びを真っ先にグレイグに手紙で伝えています。

王室の中でも特にメアリー王妃はグレイグを良き友として家族の出来事を分かち合い、グレイグに息子が生まれたときには王妃とヘンリー王子が代父母になっています。

何かとゴシップの多い四男ジョージもグレイグが相談相手でした。

 エドワードが即位したあとも職籍はありましたが、新しい国王のやり方に意見するようなグレイグは煙たがられ、彼のほうも尊敬していたジョージ5世がいない以上、宮殿に未練はなく完全に去ることとなります。

その後エドワードが退位したあとのバーティの戴冠式ではExtra Gentleman Usherとなって招待客の接待という役をやっていますが、すでにビジネスや政治、スポーツの世界に生活の基盤があることから王室に戻ることはありませんでした。

ウィンブルドンのチェアマンに選ばれたのもこの年です。

第二次世界大戦開戦時にはすでに60歳ですがRAFに戻り、経験を買われて空軍司令部などで軍務に就きます。

戦争中は四男ジョージに付き添ってアメリカへ行ったり色々と活躍しています。(ここら辺は読んでいないので省略)

 

 

戦争が終わったあとも、国王が孫を連れて遊びに来るなど王室一家との交流や、宮殿にいたときに培った親しい友人たちとの繋がりは続きます。
1951年にジョージ6世が肺がんの手術をしたときは病状が深刻であることも聞きましたが、グレイグの医学の知識はもう古く役に立たないものとなっていて、彼に出来ることはただ祈ることだけでした。

祈りもむなしく王は亡くなりますが、グレイグも同じ年に癌と分かり手術を受け、翌年の1953年に病院で亡くなります。

彼が入院中、報道で病気であることを知ったラッセルズ秘書官から妻フィリスに、ジョージ6世の公式伝記作家に亡き国王の青年時代のことを語るという仕事を頼めるかどうか尋ねる手紙が届きます。

グレイグは体調が悪い中、知っている限りの若き日のアルバート王子のことを公式執筆者に語りました。

それがルイス・グレイグにとって最後の仕事だと思ったのでしょう。
ジョージ6世と深いつながりをもっていたグレイグもローグも、国王と同じ時期に相次いで亡くなるというのは、何か不思議な運命的なものを感じます。