英国海軍

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空ときたら海。

上の旗は英国海軍の軍艦旗だそうで、海上自衛隊軍艦旗と同じように国旗とは別に掲げる旗です。

自衛隊海軍カレーのルーツは英国海軍のカレー風味のシチュー、というのをTVで放送していましたが、となると父と同じく世界に冠たる英国海軍の軍人であったアルバート王子も食していたということですね。

 

 

兄が亡くなり王位継承順が2位に繰り上がるまではバリバリの海軍軍人だった父の方針で、息子たちは軍隊コースに進みます。

1909年、バーティは13歳のときに兄エドワードに1年遅れでオズボーンの海軍学校に入学しますが、父も卒業したこの海軍学校は誇りある英国海軍軍人の養成学校だけあって、超スパルタ。

『プリンス ~英国王室 もうひとつの秘密~』に四男のジョージ王子の学校生活が描かれていますが軍隊生活そのものです。
夏は6時、冬は6時半に起床ラッパで起こされ、最初の合図(ドラマの中ではベルと笛でした)ですぐにベッドを出てお祈りをし、2つ目で歯を磨き、3つ目で冷たいプールに飛び込みます。
寝る前には3分以内で服を着替え、歯を磨かなければなりません。

ほかの生徒たちからは浮いた存在であるため兄弟たちはいじめのターゲットとされましたが、バーティ自身はそれよりも授業が退屈だったことが記憶に残ったようです。
吃音でうまくしゃべれないのもあり68人中68番目の最下位のさんざんな成績で父親をがっかりさせましたが、1911年1月にダートマス王立海軍兵学校へ進学します。

ところが限られた環境で育ってきた兄弟は、1911年2月に重い麻疹とおたふく風邪に罹ります。

エドワードに子供が出来なかった原因ってこれだ!と思いましたが、思春期におたふく風邪にかかり睾丸炎になっても、片方がダメでも片方は大丈夫という理由から不妊になるとは今は言わないようです。

1910年に祖父が亡くなり父が国王となったため、1912年には長男エドワードは海軍軍人になるコースからはずされます。 

 

 

一方の次男バーティは海軍軍人になる道を歩み続け、海軍兵学校での教育の仕上げとして1913年にカンバーランドに乗船した6か月の訓練航海に出ます。
実習では国王の息子であってもほかの生徒と区別はなく、寝るのはハンモック、船のエンジン用の石炭袋を真っ黒になりながら運ぶ仕事もしなければなりません。
ブラッドフォード著の伝記に当時の写真が載っていますが、汚れた作業着で黒くすすけた顔をした少年たちが並ぶ中に同じ格好をしたバーティがいます。
パリッとした制服姿の王子とはまったく違う姿なので、よくこんな写真が残っていたと驚きます。

 


そうはいっても寄港先の各地で国王の息子ということで注目され、ナイアガラの滝ではカメラマンに追いかけられ、ケベック州では会場にいた女の子すべてがバーティとダンスをしたがり、乾杯の音頭を取らなくてはいけなかったりと、公の場に出る機会も生じます。
そういう場が苦手なバーティは、似た背格好の生徒を替え玉にすることもありました。
航海実習が終わる頃には実習生たちの関心はどの軍艦に配属されるかということで、その口利きを頼まれたりもします。
長い航海のあとイギリスに戻ったバーティはHMSコリンウッドに海軍の見習い士官であるmidshipmanとして乗船します。

 

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 (画像引用元:Royalfamilyのtwitter)…だったはず

 

船酔いし易い上に父ほど海への情熱も持っていませんでしたが、英国海軍の士官として第一歩を踏み出したアルバート王子でした。

保安上の配慮からジョンソンという偽名で呼ばれても王子であることは皆知ってましたが特別待遇はなく、ほかの士官候補生と同様、ハンモックで寝るプライバシーのない生活です。

同時代に士官候補生だった人によると、16歳の少年にとって最もショックだったのは同性愛行為を防ぐためトイレのドアが半分しかなかったことだとか。

 

 

1914年6月28日に第一次大戦の引き金となるオーストリア皇太子の暗殺事件が起きますが、当時ポートランドに停泊していたバーティにとっての最重要事項は、3日後にHMSコリンウッドを見学しに来るという50人もの女子学生たちのことでした。

次第にきな臭くなってくる欧州情勢の中、7月末にはHMSコリンウッドもポートランドを離れ前線基地のスカパフローへと移動します。

8月4日にイギリスはドイツに宣戦布告をし、父は前線にいる息子を守ってくれるよう神に祈りますが、皮肉なことに開戦後すぐの8月23日にバーティは胃に激痛をおぼえ病院船へと移送されます。

盲腸と診断され手術を受け療養後、翌年船に戻っても再び腹痛となるなど海と陸とを行ったり来たりの経緯は、ライオネル・ローグの本にも書かれているので省きますが、手術したにもかかわらずしばしば腹痛に見舞われたバーティは学校時代からの知り合いであるグレイグ軍医に不安を訴え相談します。

なかなか軍務に復帰できないバーティでしたが、陸にいる間に父の身近にいることが長くなり、父と社会情勢や戦争の状況について意見を交わすなど親子の関係が深まるきっかけになりました。

ユトランド沖海戦に参加したあと再び病気となり、ようやく原因は盲腸ではなく十二指腸潰瘍という診断がつきますが手術についての結論は先送りとなります。

同僚たちが戦っていることに引け目を感じていたバーティは現場に復帰することを強く望み、HMSマレーヤでLieutenantとして軍務に就くと、息子の健康を心配したジョージ5世はグレイグも同艦に配属させます。

士官として務めを果たせて喜んでいたのもつかの間の2か月後の1915年7月、再び腹痛となったバーティは、これ以上船に乗ることは無理だと海軍をあきらめることにします。

こうして海軍軍人としてのアルバート王子のキャリアは終わったのでした。

 

 

その後のバーティですが常に腹痛があるわけではないことや、宮廷のお抱え医師がリスクを恐れて対処療法を勧めるため静養が続きます。

軍医として重症者の処置やオペをしてきたグレイグは手術をするべきと考えますが、重鎮の先生方に対し発言権はありません。

しかしこのまま何もしなければ病気を抱えて生きることになると助言し、バーティは手術を決心します。

心配する父は確かな保証を求めますが、グレイグのもし彼が自分の息子や兄弟だったら手術をします、という率直で真摯な答えを聞いて同意します。

11月末に行われた手術は無事終わりバーティは健康を取り戻し、ルイス・グレイグはバーティだけでなく国王からも厚い信頼を得、今までのアドバイザーな立場から国王の正式なスタッフとしてアルバート王子の側にいることとなります。

 

 

アルバート王子が乗っていた軍艦のうちHMSコリンウッドは1908年から1922年まで、HMSマレーヤは1916年から1944年まで使われていました。

兵器に詳しくなく軍艦名にHMSと付いているのがHis Majesty's Shipの略だと知らなくて、伝記を読み始めた頃は何のことか分からずしばらく悩んでました。

タイトルだけは知っていた『女王陛下のユリシーズ号』という小説は、舞台が第二次大戦中なので正しく題名を翻訳すると『国王陛下のユリシーズ号(H.M.S. Ulysses)』。

海軍の元軍人で、のちに海軍大将であった陛下を無視するなんて失礼だわー。

 

 

かつて世界最強の海軍力を誇った英国ですが緊縮財政で凋落著しいとか。

日本よりよっぽど海洋国家としての歴史があるのに寂しいですね。

そういえば子供の頃、図書館で読みあさったアーサー・ランサムのシリーズ本に、イギリスでは子供でもヨットができるなんてすごいなーと思ったものです。

調べてみたら著者は1884年生まれとけっこう昔!?

そして『ツバメ号とアマゾン号』は1930年出版と、第二次世界大戦前であることに驚き…あの本に出てきた子供たちも戦争に行ったのでしょうか。